ブログ

自分らしさの追求と地域社会(後半)

前半はこちら

『地域の介護力を上げよう!』
と、地域に向けた研修会を開いている事業者さんもコロナ禍前にはいらっしゃり、
とても素晴らしい取り組みだと感じていました。
でもそもそも、「自分らしさ」の暴走により脅かされている「地域」とは一体何なのでしょう。

「地域社会」そのもののあり方が変わってきているのを感じています。
自分らしさを追求していく社会では、人と人とは共同体を形成せず、必要な時に一時交わり、
必要がなくなればまた離れていく、と述べられています。

結婚や家族のカタチすら多様化している中で、「地域社会」というのはどんどん希薄なものになっています。
良い、悪いでは測れませんが、気軽に声を掛け合えたあの頃へのノスタルジー。

今、学校では知らない人に声を掛けられた時には「いかのおすし」と教わってきます。
・ついて「いか」ない
・知らない車に「の」らない
・「お」おごえを出す
・「す」ぐ逃げる
・何かあったらすぐ「し」らせる
だそうです。

知らない人への警戒心を高めないといけない事は本当は残念な事です。
たった30年前は玄関に鍵はかけず、学校帰りにすれ違う人には
「ただいま」「おかえり」と挨拶する世界だったのに。

認知症の人がいても、
「うちのばあさんこの頃ぼけてっから、見つけたらうち連れてきてね~」
「おやじ酒飲んで困るから、悪いけどお酒売らないでね~」、
「お金の勘定できなくなったから食べた分後で払いに行くよ、悪いね~」
と、近所でフォローし合えるような地域は今の日本に残っているのでしょうか?

近い将来、店舗では無人化が進みデジタルな判断しかできなくなり、
人間は「自分らしさ」を求めて周囲に気を配る事を怠っていくとしたら。

認知症になった人を「管理」する事はできるかもしれませんが、
認知症の人が「自分らしく」生きる方法は地域に残されているでしょうか。

デジタル化が進むべき部分と、人間同士でないとできない「いい加減」。
ここの余白が実は人間「らしさ」なんじゃないかと思います。

自分「らしさ」をそれぞれが突き詰めていくと、人間関係が希薄になる。
希薄な関係では「余白」が存在できない。
これは避けられないのか、それともこの「余白」に代わるサービスを生み出さないといけないのか。

まだまだ考える事が多いですが、
学校が始まった事により読書という、個人的な「自分らしい」時間を過ごせた事にまずは感謝しておきます。

PAGE TOP