以前も書いた事があると思いますが、介護の仕事における基本姿勢として「傾聴」という事が良く言われます。
「傾聴」は突き詰めれば突き詰めるほど、とても深いものだと感じているのですが、介護に限らずに「相手を分かろうとする」という事って改めて大事だなぁと感じる今日この頃です。
先日娘が小学校で先生から教えてもらったと、こんな話をしてくれました。
「ママ、お話は耳で聞くんじゃないんだって。体全部で聞くんだって。
だから先生がお話している時は目も、顔も、体も、心も、全部を先生の方に向けるの。」
小学校1年生でも理解しているこの事が、大人になると何故かできなくなってしまいます。
仕事となるともちろん相手の話を真剣に聞きますが、親しい間柄や特に旦那さんの話となると、目も顔も心もてんで違うところを彷徨って生返事のことも多いかも。反省してますよ。
そう考えると、わかってほしい人ほどちゃんと話を聞いてくれていないという状況に多くの人が置かれているのかもしれません。
なんでこんなテーマで書いているかと言うと、精神科医の香山リカ先生の著書「わかってもらいたいという病」を読んだからです。
その中で面白かったのが、太宰治についての考察です。
太宰治については、明らかな精神疾患ではないもののパーソナリティ障害がみられるというのは有名な話のようで。
そして太宰は異常なほどに女性からもて、ともに命を絶とうという女性も何人もいたそうです。
これが何故かというと、太宰治は今で言う「生きづらさ」を抱えて生きているが故に「私と同じ孤独を抱えている、この人ならわかってくれるはず」という存在に見えてしまうのではないかと述べられています。
そして「死にたい、でも分かってほしい」という女性の気持ちを無意識にキャッチして死へと引きずり込んでしまうのが太宰治という人だったのではないかと香山先生は考察しています。
本書ではここまでですが、孤独を抱えて生きる事に迷っている人の話を太宰はどのように「傾聴」し、最後に心中へと誘ったのか。
今となってはもう知り得ませんが、心中したいと思われるほどに「分かってくれる」と思われる才能があったという事だと思います。
もちろん、結果としては全く健全ではない結末に誘ってしまっているので例が不適切なのは分かっていますが、すごい才能だと感じます。
「相手の話を全身で聞いてもらう」という事と「わかってもらう」という事は、もしかしたら方法と結果ではなくて全く同じ事なのかもしれない、と、
そんな事をぼんやりと考えました。
相手の話を全身で聞く。
私も改めて意識しなければと思っています。